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01 -Mulberry-(都会トム・柳川・夢)

 

 

01

 

 

 昼過ぎから始まった作品の講評会は、四時間近く続いた。専攻科生全ての作品を一人一人講評していくとは聞いていたから、覚悟はしていた。が、流石に体力も気持ちも限界だ。

 教授から受けた、短く厳しい言葉を反芻しながら、自分の作品を片付ける。レストハウスにでも寄って、講評中の思考と言葉を書き連ねたノートを整理しようかと思ったが、イーゼルを肩に担いだだけでふらついた。だめだ。早く用事だけ済ませてかえろう。

 教授の研究室が並ぶ研究棟に向かいながら、昨夜届いたばかりのフライヤーを、鞄から取り出す。自分の作品を宣伝するのは、なかなか慣れない。実際に人と向き合うことのないSNSでの宣伝でも、文章を投稿するまでに1時間はかかってしまう。今日は一番これを渡しやすくて、一番早くに見せたい人の所にだけ行こう。

 研究棟の三階までエレーベーターで上がる。ふらふらするし、耳鳴りもする。階段を上るだけでも危うい。三階についた。右へと折れる。静かな廊下をぺたぺた歩いていく。耳鳴りが鳴り止まなくなったところで、やっと着いた。

 疲れている体を一旦忘れて、深呼吸をする。今朝は締め切り前の追い込みで、早朝から制作室に入って作品を作っていた。シャワーもドライヤーもろくにできていない髪は、今更何もできないような有様だが、気休めでも前髪を整えてしまう。

 ごんごんと強めにノックする。ドアを開けようとすると、あちらから勢いよく開いた。はいはーいと緊張感のない声が迎える。ああ居た。良かった。

「おおー、久し振りだねぇ」

 片手にお茶を持ったままの水沢先輩が、いつも通りのへろりとした笑顔で出てきた。 

「ほんとにお久しぶりです」

「本当にな。でも、今日はそろそろ来るかなぁと思ってた」

 どうぞどうぞ、と室内に招き入れてくれる先輩に、失礼します、と断って中に入った。

 一応、この部屋の本当の主である教授、というか先生と呼んでいるのだけど。先生の姿を探すが、やはりいない。相変わらずの忙しさなのだろう。

「今日確か講評の日だったね。どうだった?」

 色々と言おうとして、どれも言葉にできずに、口が開きっぱなしになった。まだ自然に発話ができるほど整理ができていないのだと、やっと気づく。

「ごめん、急かして。今日はまだ疲れてまとまらないか」

 言葉を見出せない私に、水沢先輩が言う。

「いえ、あの、そんなことないです。なんか、・・・言葉が、うまく言いたい事と嵌らなくて。・・・言いたいこと自体はいっぱいあるんですけど」

「うん」

 特別優しい声音でもないのに、色んなものを受け止めてくれるような、不思議な発声を水沢先輩はする。というより、普段の言動そのものからも、それが伝わって来る。そこには不自然さや無理がない。

「大変だったね。でも、とにかく今はお疲れ様」

 ほんとに頑張ってたもんな、といって、にこにこしながら水沢先輩はお茶を淹れてくれた。そして、なんか甘いもんあったかねーと、教授のデスクを漁りだす。あまりに迷いない漁り方に感心してしまう。

「あ、ありがとうございます。でも、フライヤー渡しに来ただけなので。すぐ帰ります」

 とりあえず来客用の椅子に座り、お茶をなるべく早く飲み干そうとする。ほうじ茶か。

 この部屋は、製作と出張に忙殺されている先生の部屋というよりは、空調使い放題で深夜まで残れるからと、自分の作業に来ている水沢先輩の部屋になっている。だが、ただ部屋を使用するだけではなく、掃除や、書類整理、不在中の電話の応対、先生の大学内でのスケジュール管理もやっているらしい。それで随分助かっているのか、先生は「部屋は使われてなんぼ」と言って先輩の好きにさせている。

 だから、部屋には大体、水沢先輩しかいない。今年の入学以来、あることがきっかけで、度々この部屋には用もないのに来ていた。殆ど先輩と話したり、作品を見てもらったりするためである。噺の上手い先輩に、私もついついのっかってしまい、終電まで話し続けることもよくあった。無理をすることもなくて、本当に楽しいのだけど、今日はちょっと疲れすぎている。眠気が眼の奥に溜まっているような感覚が、さっきからずっとしていた。

「お、遂にフライヤーできたか」

 見せて見せて、と本当に嬉しそうに先輩はフライヤーを求めてきた。自分のデザインした作品なので、かなり緊張と気恥ずかしさがあるが、顔には出さず渡す。

「あれっパフォーマンス作品?インスタレーションじゃないんだ」

 第一声がフライヤーのデザインの感想ではなくて、安心したような感想が聞きたかったような。微妙な気持ちではいと答える。

「じつは、二ヶ月前ぐらいから、人集めて稽古してました」

「えぇ?全然知らなかった。というか、分からなかった。つい最近まで、きみ健康に見えたし」

 あ、それなら分からないかもしれませんね、と素直に納得していると、自覚があるなら気をつけなさい、と珍しく真面目な顔で怒られる。それも素直に反省する。

 自分の製作と課題とバイトを全てをまわしいくのは、まだまだ要領がつかめなくて上手くいかない。ただでさえ心身ともに力を要する作品製作の終盤ごろには、私は酷い見かけになっているらしい。どんどん身なりに構わなくなっていくわ、ご飯のタイミングを忘れるわ、ことあるごとに鼻血がでるわ血尿がでるわで、一見すると病人そのものなのだそうだ。でも、それは講評や締め切り前の美大生にはよくあることでもある。

「ま、体力あるうちじゃないと作れない作品とか、試せないことがあるのは確かだし、分かるけどね。でも、健康を保てての話だからね。それも」

 と、水沢先輩は神妙な顔で言いながら、なにかを力強く差し出してきた。そんな顔つきが珍しいのと、心配してもらえてるのが、−−−ちょっと不必要なぐらい嬉しく感じてしまって、気持ちが顔にこぼれないよう、真面目な顔つきを保ってそれを受け取る。ぽとぽとっと手のひらに落ちるてくる。チロルチョコ。どっちもミルク味。

 な、と同意を求めるような水沢先輩の声に、は、はい、気をつけますと答えかけたところで先輩の声が続いた。

「お前にもいってんだよー」

 へ?と間の抜けた声で水沢先輩の顔を見ると、丁度、先輩が、私の後ろにあるソファに向かってチロルチョコを放り投げたところだった。

 振り返ると、こちら側とは反対向きに向いているソファの背から、急に腕が現れた。突然にゅっと伸びてあらわれたそれにも声がでるほど驚いた。が、その腕が余りにもゆったりと、別れて飛んで行った二つ分のチロルチョコを掴んだのにも驚いた。ちょっと、普通では考えられない動きをした。諸々驚きすぎて本当に息が止まる。

 その腕は一旦ソファの背に引っ込み、次にゆらりと上がってきたのは、なんだか−−−色素の薄い色の男の人だった。